
この記事の読者:「アルジャーノンに花束を」をすでに読んだり視聴したりした人のための記事。未視聴の方もあらすじを載せておいたので大丈夫です!
この記事の内容:「知性」「恋」「いじめ」「幸せ」の4つの観点から「アルジャーノンに花束を」を観た筆者の感想のまとめ。
はじめに

チャーリーーーーーーーー!!!!(泣) ぐひっ、ぐひっ、げっぷ(酔)

(うわ、また酒飲んでる、、、めっちゃ泣いてるし。)今日は、どんな映画観たの?

ひっく、ひっく、、、あ、ヒトメさん!今日は1968年版の「アルジャーノンに花束を(邦題:まごころを君に、原題:Charly)」を観たんですが、これが感動もの!いやあ、久しぶりにいい映画を観ましたよ!(号泣)

へ、へえー(汗)。まあ、落ち着いたら感想記事書いといてよ。アニメ・映画棚まだ全然記事少ないんだから。フタメ君いっつも酒飲みながら映画観て、それでつぶれちゃうし、、、。

今回はばっちし任しといてください!オミセに貢献しちゃいますよ!
というわけで、今回は1968年のラルフ・ネルソン監督による「アルジャーノンに花束を」をご紹介します!!
基礎情報:「アルジャーノンに花束を」

『まごころを君に』(まごころをきみに、Charly)は、ラルフ・ネルソン監督による1968年公開のアメリカ合衆国の映画。原作はダニエル・キイスのSF小説『アルジャーノンに花束を』。主演のクリフ・ロバートソンが第41回アカデミー賞で主演男優賞を受賞している。
日本では原作と同じ『アルジャーノンに花束を』のタイトルでビデオが発売されたことがあるほか、『まごころを君に/アルジャーノンに花束を』のタイトルでテレビ放送されたことがある。
あらすじ
チャーリー・ゴードン(クリフ・ロバートソン)は頭が良くなりたいと強く願う精神遅滞がある成年で、アリス・キニアン(クレア・ブルーム)が教える夜間学校で2年間読み書きを習っている。しかし彼の綴り能力は低いままで、自分の名前さえまともに書けない。
アリスは決して諦めないチャーリーの学習意欲を見込み、リチャード・ニーマー教授とアンナ・ストラウス教授によるニーマー・ストラウス・クリニックに連れて行く。ニーマーとストラウスは新しい手術法により、実験用ネズミの知能を向上させることに成功し、人間の治験者を探していた。チャーリーが適格であるかどうかのテストの一環として、実験用ネズミのうちの1匹であるアルジャーノンと迷路のレースをする。同じ迷路でチャーリーが鉛筆で、アルジャーノンは実際に走って迷路を辿る。チャーリーはネズミに完敗してしまうが、手術を受けられることとなった。
手術後、チャーリーは以前より頭が良くなっておらず、まだアルジャーノンとのレースに勝てないでいることに腹を立てた。しかし彼の知能は急速に上昇し始め、ついにアルジャーノンを打ち負かしてしまう。アリスはチャーリーに授業を続けるが、すぐに彼女の知能を追い抜いてしまう。チャーリーが働くパン屋で同僚は、チャーリーができないと思って、いやがらせで機械の操作をやらせる。チャーリーが見事に使いこなすと同僚たちは喜ばず、チャーリーの知能が向上して、もういじめることができないことを悟り、チャーリーを退職させるよう嘆願する。チャーリーはアリスの胸や尻に目が行くようになり、彼女の抽象的なヌード画を描くようになる。彼はアリスに婚約者を愛しているのか質問する。ある夜、チャーリーはアリスの後をつけてアパートに行き、彼女を床に引きずり下ろして無理矢理キスをするが、彼女に振りほどかれて頬をぶたれる。
この映画ではモンタージュが使用され、口ひげとあごひげをたくわえたチャーリーが、バイクに乗ったり何人もの違う女性とキスしたりタバコを吸ったりダンスしたりする。このシークエンスが終わると、2人は別々の時間を過ごし、お互いがお互いを必要としていることに気付き、チャーリーは家に戻り、アリスが彼を訪れる。次のモンタージュではチャーリーとアリスが森の中を走り、木の下でキスをし、ボイスオーバーで2人が結婚について話す。
ストラウスとニーマーは質疑応答を含む研究発表会を開く。チャーリーは質疑応答に積極的に答え、その中でアルジャーノンが死んだことを明らかにし、知能が向上したのは一時的なものだと気付いたことを言う。彼はやがて知能が手術前よりも退行していく可能性を悟り、ニーマーとストラウスと共に、いかに知能を維持できるか研究していくことを決意する。だが、そこに方法がないことを発見してしまう。アリスはチャーリーの家に行き、今すぐ自分と結婚するよう願うが、チャーリーはそれを断り、別れを告げる。
アリスが公園でチャーリーが子供達と手術前のように遊んでいるところを見た場面で、物語の幕は下りる。
筆者の補足:原作では、チャーリーは知能が下がってしまう前、自らの経過報告日誌の最後に「どうかついでがあったら、うらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください」と書き記したのであった。
- チャーリー・ゴードン – クリフ・ロバートソン(中野誠也)
- アリス・キニアン – クレア・ブルーム(武藤礼子)
- アンナ・ストラウス教授 – リリア・スカラ(寺島信子)
- リチャード・ネマー教授 – レオン・ジャニー(内田稔)
- ミセス・アップル – ルース・ホワイト(京田尚子)
- バート – リチャード・ヴァン・パテン
- ギンピー – スキッパー・マクナリー
- ハンク – バーニー・マーティン
- ジョーイ – ウィリアム・ドワイヤー
- パディ – ダン・モーガン
引用:「まごころを君に」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2021年1月29日 (金) 02:46 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%81%94%E3%81%93%E3%82%8D%E3%82%92%E5%90%9B%E3%81%AB
「アルジャーノンに花束を」を観るべき4つのポイント
さて、次は僕が考える「アルジャーノンに花束を」の4つの魅力について紹介していきます!
ポイントは4つの概念「知性」、「恋」、「いじめ」そして「幸せ」。
これらを匠に描いた作品と言えるでしょう。一つ一つ見ていきます。
「頭がいい」がそんなにいいこと?知性を求める現代人に訴えかける

僕たちは頭を良くすることを社会から求められます。社会という大きな枠組みだけではなく、家族、友人といった身近な環境においてもいえるでしょう。それが生きる力に繋がるから。
ここで一つ確かにしなくてはいけないのは、「頭がいいことというのは、善いこと」であるが「善いことというのは、頭がいいこと(だけ)ではない」こと。
僕が最近思うのは、「AはBである」は「A=B」ではないということです。
「AはBである」とはつまり、「AはBに含まれている」ということなのです。

AとBを反対にして考えちゃいけない。これを理解できていないから起こるトラブルがたくさんあります。いわゆる頭をよくしなくちゃいけない!という「社会からの圧力や強制力」なのです。
またチャーリーの場合、手術によって強制的に知性を高められたために、その知性に対して彼の感情が追いつけていないという欠点も明らかになりました。
この劇中の手術は本来の学習における自然の流れを加速させてしまうものでした。人間はその自然の流れに逆らうことも、しかるべきステップを飛び越えることもしてはいけません。
英検で例えるならば、3級の力がないのにいきなり1級にチャレンジしてはいけないのです。
この映画はまさにそういった「現代社会が人間に求める知性への強制」の怖さを表しているといえるでしょう。
恋は、相手を知りたいと思ったときに起こる知的欲求の一つ。

賢くなったチャーリーにはある一つの感情が芽生えました。キニアン先生への「恋心」です。
このことから僕は「恋は、相手を知りたいと思ったときに起こる知的欲求の一つ。」であるということをこの映画は伝えたかったのかなと、思いました。
恋する相手というのは自分にとって一番の「謎」を秘めている存在です。その人を振り向かせたいけど、何を考えているかわからない。
謎というのはこの世の中に無限に存在しますが、その恋人への謎、つまり恋する人に関心があるからこその謎は特別な価値を持ちます。
それを知りたいと思える知性が、恋には必要なのかもしれません。
しかし、以前のような知能の低い自分に戻ってしまうことがわかったチャーリーにはそれは耐え難いものでした。
知能が低くなると、恋を失う。これは劇中の手術のようなSFがなくても現実に起こりえます。
何らかの事故や病気。脳にダメ―ジを負ってしまうと、人はそれまでのその人ではなくなってしまうでしょう。
これは僕の考えですが、そうなってしまったら結局のところ傷つくのは当の本人ではなく、その人の周りの人間なのです。
人が死ぬときも、死んだ人は自分の死に傷つくことはできません。傷つくのはいつも周りの人間なのです。
だからこそ、チャーリーは自分の知能が下がってしまう前にキニアン先生と別れることにしました。自分がまだ自分でいられるうちに、自分として別れを言うために。
キニアン先生からすると、チャーリーがどんな姿になっても別れたくはなかったはずです。しかし、自分の愛したチャーリーが、そのチャーリー・ゴードンとして決めた決断を優先させることが、キニアン先生の彼に対する愛の形の一つだったのかもしれません。
いじめられても”嘲る”チャーリーに私たちは何を思う?

チャーリーはその日大家さんとの約束のために早く仕事を切り上げて帰宅しなければいけませんでした。それを忘れていたチャーリーをからかうために同僚たちは彼のロッカーにパンのために使われるイーストをいたずらで仕込みます。
同僚にそそのかされて帰宅する準備をするためにロッカーを開けたチャーリーは、イーストまみれになってしまいました。それを見た同僚たちは大笑い。チャーリーもそれにつられて大笑いします。
そのいじめられているシーンはなんとも胸が締め付けられるような、そんなシーンでした。
チャーリーは知的障がい者ですが、同僚たちはごく一般的な労働者。しかし、工場で働いているところを見ると、必ずしも裕福だ、とはいえないでしょう。
同僚たちも社会から見ると「いじめられっこ」の側。そのなかにチャーリーという自分たちより下の階層に位置する人間を見て、自分のアイデンティティを取り戻そうとしたのだと思います。
この世は不平等で不公平ではありますが、僕はこのチャーリーの「嘲り(あざけり)」に感動しました。
本人はいじめられているとは思っていないかもしれませんが、自分にされたことに対して嘲る。
これはまさしく精神の上ではチャーリーのほうが数倍も上手だったという証明になるでしょう。
悲しいときや被害を受けた時、身体的ダメージを受けたのはその加害者のせいではありますが、精神的なダメージを受けたのは、そのダメージを受け入れた「自分」のせいなのです。
いじめ問題はいつの時代も人間の悪しき側面として残り続けるでしょうが、それに負けない教育が必要だと思った筆者でした。
「幸せであること」も「不幸であること」も選ぶのはあなた。頭の良しあしではない。

幸せとは何か。この問いに答えを導き出すことは無意味ですが、答えを導き出そうとする姿勢には限りなく大きな価値があります。
ちょうど最近タイムリーに僕にとって大事な方と話していたことなのですが、「知りすぎたからこその不幸せがある」という話をしました。
この考えをあらためて解きほぐして考えると、僕の答えは半分イエスで半分ノー、ということになります。
作品終盤のチャーリーのように、頭が良すぎるからこその不幸は確かにあるでしょう。人間社会、そして未来に起こりえる良くないことを考えると、それを知ってしまったがゆえに恐怖することがあります。これを人は不幸だと呼ぶ。知らなければよかった、と。
これらは確かに不幸に繋がりえる要因たちですが、必ずしもこの要因たちによって不幸になるとは限りません。
僕は頭が悪い(客観的に「僕の頭が悪いか」どうかはわかりません。あくまでも主観的に考えて)ので、頭のいいひとの考えはわからない部分もあるのですが、僕が信じるのは、
「頭の良しあしで不幸であるかどうかは決まらない」ということです。
不幸であると考えるのは、その人のせいなのです。
お気づきの方も多いかと思いますが、僕の考え方のおおくはアドラー心理学に根差しています。ただ、僕は別にアドラーが正しいとか正しくないということに対して関心はありません。
僕は「自分が願えば自分を変えられる」という考えに心から共感しただけなのです。
アドラー心理学の考えが書いてある名著「嫌われる勇気」もチェック!
↓
結局物語の最後にチャーリーは昔の頭の悪いチャーリーに戻ってしまいました。
でも、また夜間学校に通って、頑張って勉強をすればいいのです。
どんなに自分がだめだと思っても、昔のチャーリーは英語のスペリングを頑張って学ぼうとしていました。
その姿勢こそ、幸福な人の姿勢と言えるのではないのでしょうか?
人間いつかは死にます。その死の際に自分の頭にある知識なんてものはなんの役にも立ちません。死は問答無用で魂をこの身体から奪っていきます。
しかしこの世には、いまだ自分を想いつづけてくれる人がどこかにいるはず。それはその人の頭が良かったからなのではなく、その人が良い人格者であったからなのです。
アルジャーノンに花束を、そしてチャーリー・ゴードンに花束を。
おわりに


チャーリーーーーーーーー!!!!(泣)

チャーリーーーーーーーー!!!!(泣)

いい話っすよね!!??

いい映画見つけてきたね!(泣)めっちゃ感動したわー!

そ、それじゃあ僕の今月の給ry

、、、は君の酒代で消え失せましたよ。
主人公のチャーリーは知的障がい者。簡単な英単語も書けないほどに彼の知力は低いものでした。
そんな彼が手術によって飛躍的に高い知力を得るわけですが、術後のアルジャーノン(モルモット)の変わり果てた姿を見て、チャーリーは自分の知力が永遠のものではないことを知ります。
そして彼は研究の発表会と題した舞台上で多くの科学者の前でその高い知力を見せつけますが、その彼の言葉には知性に対する「憤り」のようなものが滲みでていました。