
1. デュルケームの生涯と著作
デュルケームは1858年4月15日にフランスのロレーヌ地方のエピナルというところで生まれました。パリで大学を卒業後、プロヴィンスで哲学の教師に就き、その後ドイツのベルリン、ライプツィヒへと留学。1887年にフランスのボルドー大学で初めて社会学の教師となり、1902年にはソルボンヌ大学に呼ばれます。しかしその後第一次世界大戦が勃発し、それによって彼の友人たち、また息子を戦争で亡くし、1917年の11月15日にエミール・デュルケームは永眠しました。
彼の主な著作は
- 自殺論
- 社会分業論
- 社会学的方法の基準
などなどです。
2. 理論的観点
2.1. 社会学的研究の基準
デュルケームの思想に大きく影響を与えたのは、「法の精神」で知られるモンテスキュー、社会学という概念の生みの親であるオーギュスト・コント、進化論を唱えたハーバード・スペンサーなどの研究者たちです。

デュルケームが目指したのは社会学を独立した科学として設立することでした。その社会学とは社会的問題を解決する規律としての学問のことです。それは自然科学者が自然的世界を研究するのと同じように、社会学もまた客観的に社会的現象を研究しなければならないとデュルケームは考え、社会学を自然科学的に研究することを目標としました。この意味で社会学は「社会の科学」という意味での特殊なテーマを扱っているため、一つの独立した学問であるとデュルケームは主張しています。
社会学は同じ行動科学である心理学とは異なるものであると考えなければいけません。心理学は人間の生態的な反応やそれから生じる精神と身体の関係を研究する学問ですが、社会学は目に見えない社会的現象や関係性を研究する学問なのです。
社会学は、必要性があり、かつ空間的に繋がりのある人と物の結合から成り立っている。
エミール・デュルケーム
デュルケームによれば、社会学は主に2つの体系に分類することができます。
①社会生理学
社会が生物の体のようにお互いが働きあって一つの共同体を作る、という意味でデュルケームは生理学と社会学の類似性を指摘し、これを社会生理学と呼びました。
たとえば人体はさまざまな臓器から構成されていますが、それと同じように社会学は倫理、法、連帯性、強制力などといった要素から構成されているのです。
②社会形態学
これは社会の物質的なものを扱う社会学体系です。社会生理学が社会学を構成する概念を表すとしたら、社会形態学は実際の情報に基づいて研究をする、という考え方です。
たとえば、社会の拡大や分類、人口の大きさや密度、建築や交通網などの物質的なものを社会形態学では扱います。
また特に面白いと僕が思うのは、デュルケームが犯罪を社会の正常な機能として考えた点です。つまりここでの犯罪は悪という枠組みのなかではなく、善悪もないただの機能としているのです。そう考えると、犯罪をなくそう、という思想はそれ自体が間違っているといえます。犯罪をなくすのではなく、犯罪といつまでも闘い続けることが重要なんです。
そしてデュルケームは常識についてもこの「社会学的方法の基準」のなかで述べています。
常識は、そのいつもながらの単純化癖のために、嫌悪されるものでも何らかの有益な存在理由をもちうること、それでいてそこにはいかなる矛盾も存しないこと、を認識しないのだ。
岩波文庫、デュルケーム「社会学的方法の基準」P16より
少しややこしいですが、簡単にいえば常識はそれがなぜ常識であるのかがわかっていない概念だということです。
社会学の入門書としてランドル・コリンズの「脱常識の社会学」もこのブログでは紹介しています。「社会学とは常識を疑う学問である」という彼の主張をもとに社会学をより理解してみましょう!
また、社会学を学ぶにあたってこちらのピーター・L・バーガー著「社会学への招待」も読むことをおすすめします。社会学って結局娯楽なんだ!楽しもう!というなかなか面白い主張をしていて、こちらも初学者にはおすすめの一冊になっています。
3. デュルケームに影響を受けた研究者と著作
3.1. マルセル・モース

フランスの社会学者でデュルケームの甥にあたる人物です。モースは主に宗教社会学と知識社会学の研究を行いました。彼の書籍で有名なのは「贈与論」です。これは古典社会においての交換という概念の形態と機能を研究したものですね。デュルケーム著の「自殺論」では統計データを集める際に彼に協力したといいます。
3.2. モーリス・ アルブヴァクス

同じくフランスの社会学者です。彼は知識社会学の領域で活躍し、デュルケームとは異なり、社会学と心理学の統合をはかりました。「集合的記憶」という概念の提唱者でもあります。主な著作は「社会階級の心理学」、「集合的記憶」です。
4. 社会的事実
デュルケームの理論を知るうえで重要なのが「社会的事実」という概念です。
では、社会学的事実とは何のことなのでしょうか?
”社会的事実とは、固定化されていると否とを問わず、個人のうえに外部的な拘束をおよぼすことができ、さらにいえば固有の存在をもちながら所与の社会の範囲内に一般的にひろがり、その個人的な表現物からは独立しているいっさいの行動様式のことである。”
エミール・デュルケーム「社会学的方法の基準」岩波書店 P69
つまり、社会的事実とは
- 外在的である :社会的事実は外から人々に対して現れるのであり、先天的なものではないから。
- 一般的である :ある特殊なケースにのみ当てはまるのではなく、常に有効であるから。
- 強制的である :社会的事実はどの個人にも強制力を持っているから。
と言えます。
社会的事実は”社会生活の構成物質”ですので、例えば、法、倫理、常習、宗教、流行、言語、建築、通貨システム、などといったものですね。
またデュルケームは社会的なものは社会的なものによってのみ説明されると考えました。そのために、私たちは社会的事実を外世界のものとして観察しなければいけません。
単純社会
- 集合意識 ↓
- 個人 ↑
- 分業 ↓
- 機会的連帯
- 部分的に区別
- 抑圧的な法
現在社会
- 集合意識 ↑
- 個人 ↓
- 分業 ↑
- 有機的連帯
- 機能的に区別
- 開放的な法
機械的連帯
機械的連帯とは、社会的秩序の類似性による共同性をもった連帯のことをいいます。例えば、原始社会では同じような仕事(農業のような)をして、他の人と同じようなものを食べ、眠る。そのような全員が機械のように生活するような連帯を機械的連帯とデュルケームは呼びました。
有機的連帯
機械的連帯に対し、有機的連帯は互いに作用する依存性によって成り立つ共同性のことを指します。現代社会では、原始社会のように皆が同じ仕事をしているわけではありませんよね。いろいろな仕事があって、いろいろな食事、家庭、etc…。それぞれの人がお互いに依存し合いながら連帯し、この分業によって現代社会は維持されています。そのような社会を個々が臓器のような役割を果たしていることからデュルケームは人間(有機体)に例えて、「有機的連帯」と呼びました。
このような労働分業的社会の発展によって以下のような発展を遂げました。
- 法の成立
- 人口増加。そしてそれによる人間集団の規模と密度の拡大による闘争性の増加。
- 対立↑ =連帯の存続危機 →労働分業による対立の限定↑、専門化↑ →統合の新しい形態としての有機的連帯(不平等な個人がお互いに指示しあう)。この統合というのは労働分業の結果から生まれたもの。
- アノミー的労働分業
- 広すぎる範囲で作用する労働分業
- 強制的な労働分業
4.1. 社会的事実としての自殺

デュルケームで最も有名なのは「自殺」を社会現象として扱ったことです。一見、個人によって引き起こされる自殺という現象ですが、デュルケームはこれを社会的な原因によるものだと言ったのです。この自殺論は当時の統計学に基づく非常に自然科学的な方法で研究されており、そのデータの正しさに疑問を持つ学者もいますが、社会学における先行研究の一例として評価されています。
さて、まずはじめに始めるのは「自殺とは何か」という定義付けです。自殺というのは当然ながら自分の命を絶つことと考えられますが、デュルケームはこのような日常語というものはいつも曖昧なものであり、それをより明確に再定義する必要があると述べています。そしてこの自殺論のなかでは自殺を「当の受難者自身によってなされた積極的・消極的行為から直接、間接に生じるいっさいの死」と仮に定義しています。
しかしこの定義も完璧なものではありません。自殺者はどのように、なぜ自殺を試みるのか、それは様々に異なるからです。この定義のみでは自殺という概念を説明できているとは断言できません。
また自殺はつまるところ生命の放棄であり、そういった行動のすべてにはある共通点があるとデュルケームは唱えています。それは「事情をあらかじめよく心得たうえでなされる」ということです。そして自殺者はいかなる結果にせよ、自分は死ぬということを予測していた人間であるということができます。
これらを考えたうえでデュルケームは
「死が当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名付ける」
と定義したのです。
この「自殺論」のなかで述べられているのは、
- 自殺は個人的なものではなく社会的なものである。
- 自殺は犯罪や犯罪状態の産物ではなく、個人の尺度によるものである。
- 社会的事実としての自殺:その他の理由(生物学的、心理学的、環境的)は意味をなさない。すなわち、あくまでも社会学的な見方による結果だということ。心理学的にいうならば、個人の虚無感による自殺などといったことは無視している。
- 集団意識の危険化としての自殺
自殺の種類
デュルケームは本著のなかで、自殺の種類を4つに分類しています。
- 自己本位的自殺(個人間の結びつきの低下、不足する統合力)
- 集団本位的自殺(個々の強すぎる結びつき、依存構成の狭さ、集団による強力な管理体制〈例、軍隊〉)
- アノミー的自殺(社会の不足する共同統合、普遍的な無法状態、経済恐慌や流行などによるもの)
- 宿命的自殺(個人の感性的な決定、圧政的な社会での奴隷、個人には交渉権のない社会、意味のない現代社会)
自殺についての研究の結果
- 社会がより狭く統合され、また個人の生活がより小さいものとなるほど、自殺率は高くなる。
- 社会集団の統合力が弱まり、社会的乖離が大きくなればなるほど、自殺率は高くなる。
- 必要性が平均値を大きく上回れば上回るほど、自殺率は高くなる。
- 現代社会の中で最も現れる自殺の形態というのは、自己本位的自殺である。
4.2. 宗教、その起源と社会的機能
デュルケームはまた「宗教の原型」について関心を持っていました。これはつまりキリスト教、イスラーム、仏教といったように宗教の種類やそれぞれの教えを理解することではなく、宗教とは何かということそれ自体についての関心という意味です。
彼によれば歴史を見ると、そもそも宗教とはヨーロッパの文化ではなくオーストラリアのアボリジニやアメリカのインディアンの単純な信仰体系にあるということがわかります。しかし宗教は現在に至るまでに複雑な変化を遂げ、それに対するさまざまな理解と解釈を生みました。それに従ってそもそもの宗教の機能とは何かという疑問をデュルケームは持ったのです。
ではその宗教の機能とは何なのでしょうか。それはつまり「聖域と不道徳な世俗域を厳格に区別する」という機能だとデュルケームは主張しました(例:寺院、教会などの空間的区別、宗教的祝日などの時間的な区別など)。そして宗教とは根源的に集団的なものであるということも重要です。それは宗教が個人の意識から発生してより大きなグループに拡大されていくものではなく、信仰という目に見えない力(前述の言葉で言えばこれも社会的事象といえる)によって形作られたものであるため、宗教はまた社会的な起源である、と理解することができます。
5. 個人の行動と社会の行動について
デュルケームによれば個人と社会の発展はゼロサムゲームではなく、互いに対する共同上昇なのである。つまり、個人の力が強まれば社会的な力が弱まる、といったように互いに相反するような概念ではないのです。人間はそのため個人的な存在でありつつ、また社会的な存在でもあります。そのような存在としての人間を ”ホモ・デュプレックス (二元的な人間)”と呼びます。このように人間は社会と個人の両方に属する存在であり、そのバランスをうまく保つために社会には「教育」という機能が存在しているのです。この教育は言い換えれば社会からの強制力だと言うこともできます。この強制は個人を社会を持続するために必要なものなのです。
しかし現代は生活の変化による個人の個人化が大きく進歩した時代です。人々はより自由に、そして他社との距離を取りながら生活することも可能になりました。インターネットを通じていろんなものが買えてしまいますもんね。これはデュルケームの時代においてもこのようなテクノロジーによる人間の生活の変化が観察されたようです。
この意味においてデュルケームは「新しい道徳の確立」に着目することが重要だと唱えています。つまり現代は個人が個人を崇拝するようになった時代だと彼は考えました。